私たちは日常を生きている

今までに見たサスペンスやホラー映画よりも怖かった。ドラマ版「阿修羅がごとく」のことだ。身に覚えのある類の不愉快さや嫉妬や居心地の悪さがドラマの中に存在している。勿論、これはドラマであり創作だけれども、その中に人間の日常というものが確かに存在している。向田邦子のドラマを見たのは初めてだったけれど、日常という意味でここまでリアリティのある作品は今まで見たことがなかった。

 

私たちのふだんの会話と言うものはドラマや映画のように洗練されていない。的外れなことを言ったり話題を反らしたり言葉足らずだったり、ましてや女同士の会話は話題が行ったり来たりするものである。

「仕事を変えようと思って」「最近この俳優にはまってる」「歯医者に通い始めたんだけど」「このあいだ家族が病気になって」「顔のシミを取りたくて」…

話題はめまぐるしく移り変わり、そしてまた最初の話題に戻ったりする。話題によってはにわかに不穏な空気になったり、そうかと思うと盛り上がり、ひたすら喋っているうちに時間が経っている。すべての話題は同じサイズのカードとして扱われる。日常を過ごすうえで、色々なものが雑多に存在し、そして日々新たに雑事は発生していく。一般的なドラマや映画のように、ひとつの筋に沿った出来事だけで生きていけるわけではないし、そのためのテンポの良い会話だけをするわけではない。父の浮気だけで日常は完結しない。真面目な父の浮気の話の最中に母親の踵のことを思い出して盛り上がったり、時には差し歯が抜けたりする。さらに言えば、明日までに息子の学校のあれを支払わないとだとか、帰りに豆腐と長ネギを買わないとだとか、明日はあの人が来るからパックをしないととか、早く終わらせて彼氏に会いたいだとか、頭の中にはもっと細々したタスクが存在するだろう。

今まで、映画やドラマでそういった部分が描かれない事への違和感を感じることもあったけれど、そういうものなのだと思っていた。つまり、それらはストーリーの邪魔者なののだろう、と。しかし向田邦子はそのような雑多な日常を邪魔者とせず、むしろ登場人物のそれぞれの性格や生活に深みを持たせ、セリフ以外の部分でも感情を表わしていた。セリフのそのままの意味合いだけではなく、「」の外側にも感情がある。もしかしら、その外側にこそ人の本質はあるのかもしれない。

向田邦子の鋭く辛辣な目線で描かれる描写にはぞっとするような恐ろしさがあり、しかしそこには確かに日常があり、人間と言う生き物の魅力がある。人の過ちや虚栄心や嘘と、人の優しやや魅力の両方が存在することは矛盾しない。というか、片方なくして存在などしえないのだ、おそらく。長所は短所という言葉は短絡な感じがするが、しかし真実だろう。それに、すべては曇りなく良い要素だけの人間がいたら、私なんかはその眩しさに目が灼けてすべてが嫌になるだろう。

 

華やかさとは無縁の日常の中にこそ人間が存在している。そして、男と女はそれぞれに愚かだが、それは違った種類の愚かさであり根本の部分では決してわかりあえない部分がある。その愚かさゆえに人は過ちを侵し人を傷つける。それが人生である。そういうことを、向田邦子は辛辣に緻密に描写する。それははっとするような鋭さなのだが、同時に、人は過ちを侵すということを責めたりはしない。人間はそういうものだということを肯定しているというか、受け入れている。乱暴に言ってしまえば、それが向田邦子と言う人の優しさなのかもしれない。人の業を緻密に描くが、決して責めてはいない。安いドラマのように、神のような立場に立って過ちに裁きを下すわけではない。浮気をした父親、浮気をされた母親、浮気相手、それを知った娘たち、それぞれに人生があり言い分があり孤独があり、それぞれに生活があり感情を持って生きている。各々の感情や反応や選択にも、色々な要素が絡まりあい葛藤が生まれる。結論としては父の浮気を支持しないにしても、その中には、「私も不倫しているし厳しく責める気にはなれない」「夫も不倫しているし他人事とは思えない」「正直どちらでもいいし、しょうがないと思うけれどみんなの手前そうは言えない」など、様々な成分が混在しているのだ。私たちは100%のイエスかノーの二択で生きてはいないのだ。そこを煮え切らない感じではなく、鮮やかに表現できるのが向田邦子の才能なんだろう。

 

それにしてもキャストがまた皆良かったのだが、両親といしだあゆみと緒方拳が特によかった。途中で緒方拳が降板したのは役柄の情けなさに嫌気が差したからだとか、佐分利信は本読みのたびに激高しただとかネットに書いていたけれど本当なのだろうか。男と女の両方の愚かさがうまく描かれているの感じたけれど、男性から見るとまた違った感想になるのだろうか。それとも時代の価値観の違いなのだろうか。妻が不在だと何がどこにあるかまったくわからず苛立つ夫というのはひとつの事実としてさらっと描かれていたと思うが、当時の男性からすると糾弾されていると感じるシーンなのかもしれない。

それと、残念なのは自分には女兄弟がいないことである。きっと姉妹と言うものは、女友達とはまた違う類の距離感や親近感と、血を分けたゆえの残酷さや許し難さがあるのではないだろうか。きっと私に姉妹がいたなら、また違ったものが見えていただろう。それが本当に惜しいのだが、このドラマを見た後だと姉妹がいなくて気楽だったのではないかとも感じる。姉妹がいる人にはこのドラマはどう映ったのだろうか、それがとても気になる。